いつもここから
あけましておめでとうございます。
いろんなものを考察したり語ったり感想言ったりなどするだけのブログです。
ゲームや漫画、アニメの話はネタバレを含むだろうと思うので
できれば作品をプレイしたり見たり読んだりしてから読んでください。
宜しくお願いいたします。
ブログ
アナと雪の女王のクリストフはシンデレラだった【深夜の空想メモ】
■クリストフについて
■なんでシンデレラやねん その1
■モチーフについて
■クリストフの役割
■なんでシンデレラやねん その2
☆はみだしシンデレラ話
■まとめ
【10周年】輪るピングドラムに思い馳せたいだけ
※ネタバレ※含みます。
作品をご覧になってから読まれることをおすすめします。
また、宗教的、実際にあった事件の話もございます。
不快感等を持たれる方はご覧にならないようお願いします。
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これまで書いた記事▽▽
キャラクター
高倉晶馬
名前の由来は『銀河鉄道の夜』に登場するジョバンニ
賢治の描いたジョバンニ同様、晶馬も「ほんとうのさいわい」を模索しています。
また、自分の原因ではなく親(父)の罪を背負い他者から罵倒を浴びせられる姿もジョバンニと重なります。
高倉夫婦の本当の子どもであり、業を背負うものとして描かれています。
優しくておせっかいに見えますが、罪を拭うために必死に徳を積もうと足掻く滑稽な人間にも見えます。
個人的には、名前に「馬」が入っていることから、イエスが馬小屋で生まれたこととも何か関りがあるんじゃないかと感じています。
他にも「真」「摩」「磨」いろんなまがあるのに、わざわざ馬なのはどうしてかな、と感じます。
…単純に、王子は馬に乗って現れるものだからかな?とも思ったのですが。
いろんな論文を読んでいると、どうして馬小屋で生まれたのか考えていくと「貧しい家に生まれた」「望まれない子だった」説が強くなんだか納得。
晶馬は世間的に見ると「恵まれていない(両親が犯罪に関与し指名手配)家庭」に生まれ「望まれない命(説法を聞かずベランダで遊ぶ晶馬を困ったように見つめる父から)」であったともとらえられると思いました。
…けど最後には苹果を救う救世主(王子)となっています。
高倉冠葉
名前の由来は『銀河鉄道の夜』に登場するカンパネルラ(カンパネラ)
そして、イエスキリストがゴルゴタの丘を登り磔刑された際かぶっていた荊冠
古代ギリシアで勝者に送られた月桂冠(オリーブ冠)
等が考えられます。
過去の記事で冠葉の人生は《自己犠牲》で成り立っています。冠葉は確かに家族や陽毬のために自己犠牲を重ねていました。
けど、冠葉の自己犠牲はだんだんと根底に強いエゴが根を張り、《犠牲》の上に成り立つ幸せを《他者におしつける》結果となりました。
晶馬と冠葉の衝突シーンはそれが如実に出ていました。冠葉の犠牲で成り立つ家族に疑問を感じる晶馬、そんな晶馬を一種邪魔に感じる冠葉の対比でした。
そして結果、自分の「ほんとうのさいわい」を見失った冠葉は《陽毬を死なせない》という最終目標のために他者すら犠牲にすることを厭わない獣と化しました。
銀河鉄道の夜に登場するカンパネルラは、親切で控えめ。
自分の親友をいじめていたザネリが川に溺れたところに居合わせ助けるために代わりに溺死してしまいました。
対象が何であろうと自愛の心があり、自己犠牲をもって助ける。そして死してなお、母気持ちを想い涙するような少年です。
性格は違えど、自己犠牲の精神はカンパネルラから強く遺伝しているように思えます。
高倉陽毬
名前の由来は「ひだまり」「太陽」(ひだまりは作中明言アリ)かと思います。
キリスト教においてはイエスが「正義の太陽」と称されることもありますので、清く正しいもの…のイメージですかね…ワカンナイ。
…陽毬だけ、他のキャラのようにこれ!という名前の由来が見当たらないんですよね。何かあったら教えてください。
また趣味が編み物ということもあり、ジョバンニの父が「漁に出たまま戻らない」も連想できます。
漁=網=編み物 の繋がりです(考察っつーもんはこうやってこじつけて楽しむんだ)
荻野目苹果
言わずもがな名前の由来は「楽園」に生える禁忌の果実
そして『銀河鉄道の夜』に登場するご褒美の苹果
◇
また、以下の登場人物は『南極物語』を地盤に名前が付けられています。
渡瀬眞悧
『銀河鉄道の夜』のザネリと、『南極物語』の渡瀬恒彦から
⇒眞悧の助手 シラセ・ソウヤも『南極物語』の犬の名前から
本人が言うように《呪いのメタファー》的存在
夏芽真砂子
そのまま夏目雅子から
冠葉の本当の妹。弟にマリオがいる。
多蕗桂樹
犬のタロから
時籠ゆり
犬のジロから
高倉夫婦
高倉剣山(高倉千江美)は高倉健(その元妻チエミ)から
荻野目家族
そのまま荻野目慶子から
『南極物語』は端的に言うと、南極に置き去りにされた犬の話です。
置き去りにすんなよって思いますが、いろいろ苦悩があって犬を置いて行きます。
なので、南極物語から名前が付けられている登場人物は《置いて行った》人物か《置いて行かれた》人物である、と解釈できます。
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今年は輪るピングドラム10周年だったこともありたくさんうれしいニュースがありました。
クラウドファンディングは気付くのが遅く参加し損ねてしまいましたがグッズはたくさん買いました。ディスティニースタンプすgggっごくほしかったので今から届くのが楽しみです。
▼10周年サイト
映画コピーは
「生存戦略、ひととき僕たちはカエル――。」
公開されたビジュアルポスター及びフライヤーにはペンギン帽子が描かれていますが、
ポスターのペンギン帽子の色合いが作中のものとは異なります。
作中のペンギン帽は瞳が桃色、くちばしがオレンジがかっており、ポスターのような王冠?は被っていなかった。
桃果の魂が開放された状態の帽子?瞳の色がマリオに似てる?とかいろいろ考えたのですがこれだけでは掴み切れません。
天井が銀河、水に沈んだような電車(地下鉄)に高倉兄弟、苹果、真砂子、桂樹、ゆりが乗っています。
座っているのは晶馬、冠葉、桂樹の男3人、女性はみんな立っています。そしてマリオはいません。
桃果、眞悧もいないように見えます。
何が言いたいかっていうと楽しみですね!!!!!!!ってことです。
私今人生にこれしか楽しみがない。
来年は絶対生き抜く。前編後編見なくちゃ死ねない。
頑張ります。
ぼくのなつやすみ2◇語るだけ《その4》
ぼくのなつやすみ2のネタバレを含む感想、お語りです。
ゲーム内容を知っている前提で話を書くので、ゲームをしてから見てね。
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◇
仲川家
少し離れの一軒家に住んでいる家族で、父親であるオオカミじじいは基本家には帰ってこず、洋が一人で暮らしているるみたいです。
この家族もえもいので喋らせて、喋らせてください。
エモとハードボイルドが組み合わさってる。(ハードボイルドの意味あんまり分かってない)
◇
仲川洋
中学3年生で受験を控える男の子だが、ロケットの研究・打ち上げに夢中。
小さい頃は靖子と仲が良かったのだが、靖子はひとつ歳が上なことを知らず、一緒に小学校に上がれると思っていたのに上がれず、だんだん疎遠になってしまった。
文系科目は苦手だけど、理系科目は天才的。
オオカミじじい
変わり者と言われるじじい。50代らしい。
周りからオオカミじじいと呼ばれており、本名は不明。若い頃に絶滅したニホンオオカミを探し回っており、変なあだ名をつけられた。
結果、オオカミをみつけて追い詰め狙撃したものの狼の死骸を最後まで見つけられず誰にもオオカミの存在を信用してもらえなかった。
現在は山奥で炭焼き職人として働いており、家にはあんまり帰っていない。
》
洋とオオカミじじい
あんまり互いのことを言及しませんが、洋は父のことを「筋金入りの変わり者」と称しています。
オオカミじじいは洋のことを詳しく話しませんが、山を降りたところにある家に一人で暮らしていると理解しています。
いうなれば「ネグレクト」に近い状態に見えますが、この親子は互いを憎んでいるようにも疎ましく感じているわけでもなく、一種の”他人感”が漂っています。
別項で書く『別次元』の存在にも思えなくもないです。
》
洋の哲学
「…あのイルカってさ、きっと入道雲がなくって、海と空の境い目が分からなくなっちゃうくらいよく晴れた夏の日に泳いでいたら、あんまり気持ち良くって、すいすい空まで登っちゃったんだと思うよ。」
》
オオカミじじいの夢と現実
オオカミじじいはオオカミを追いかけていたころの回想では、夜の空と満月が大きくクローズアップされます。
そして、オオカミじじいの炭焼き小屋は建築名称はわからないんですけど湖の真ん中にぽつんとたつような、水に囲まれた土地です。
他記事でも書いたのですが、空は夢で海(陸)は現実だと私は解釈しています。
オオカミじじいは絶滅したと言われていたオオカミを追いかけていた頃は、洋がロケットをとばす、靖子の父が天体観測をするのと同じような夢想行為だったのだろうと思います。
そして、それが夢じゃなくなった時(オオカミを発見し射撃した)、オオカミじじいの夢はいっしょに散ったんだろうな、と感じます。
オオカミじじいは初めて会ったボクに少し冷たい。ほかの大人とは違ったちょっと怖いじじいです(フランクな谷口さんって感じだろうか)。
「おまえ、オオカミが怖いか?」
オオカミじじいに尋ねられて、私は迷わず「はい」を選んでしまった口ですけど、答えると、オオカミじじいは「…それは、とても大事な感情なんだ。大切にしろ。」と言います。
ここで産まれる疑問は、怖いオオカミをどうしてじじいは追いかけていたのか。ということです。
それは話が進んでいくともっと色濃い疑問になります。
オオカミじじいは「オオカミと人間は生きている次元が違う」といいます。
オオカミが怖い、と思っていればオオカミに近付くこともなくオオカミの次元に入り込むこともない。
そして、オオカミはそれを遠吠えで教えてくれている「急いで向こうの世界に還りない。」と警告してくれているとオオカミじじいは話してくれます。
…じゃあ、一度次元を超えたオオカミじじいはどこの世界にいるの?
と、私は疑問に思いますが、最終的にオオカミを諦めて炭焼き職人としていることから人間の次元に帰ってきたのだろう。と思います。
余りに深追いすると「戻れなくなる」とオオカミじじいはいいますが、それは端的にいうと「死」なのか、現実から極端に離れ人間世界で「異端」として扱われる社会的な死を表しているのかな、と感じました。
◇
個人的すぎる見解
オオカミじじいって、夏休みの中頃表れて、終盤にはほとんどいないじゃないですか。
それで、私は昔このじじいも死んでんゃねえのか?と勘繰っていた時期がありました。
けど、上記したようにオオカミじじいはオオカミを追うのをやめています。
「むなしくなってやめた」とのことでした。
けど、夢を捨てて現実に帰ってきたもののオオカミじじいは誰よりも空に近い山奥で炭を焼いている。
夢を捨てきれていないような、そんな雰囲気を感じさせます。
海(現実)に近い自宅には作中数回?帰っていますが、そこでも誰ともかかわりを持ちません。
洋と靖子は縁側に座っているのですが、まるでオオカミじじいがいないかのように二人で会話をしています。
凝り性の制作陣なのに、洋と靖子は昨日話してた内容と同じことを話していた。どうしてわざわざオオカミじじいが家に帰っているように仕向けたのに、二人はオオカミじじいをいないもののように扱うのか。
海の近くに一軒家にいるオオカミじじいは、ボクに水かめに溜めている水を飲めと勧めてきます。
その水はすごく冷たくておいしい、とボクは感激しますが、どうして水道が通っていないのか謎に感じます。
「昔は人間みんなこういう風にくらしていたんだ」とオオカミじじいは話し、ふざけてお金を要求してきます。
…とても現実的な姿で、炭焼き小屋でオオカミを追っていた夢について話していたオオカミじじいとは別人のように感じてしまいます。
上記したオオカミじじい死亡説は単純に、富海の住人たちが生きていると判断している。ということと、EDにいる。ということで否定されてしまったのですが。
個人的には好きな説です。
だって、久々に山から下りてきた父親に恥ずかしくても何一つ言及すらしない洋。
それこそ、幼いころから洋と仲良くしていた靖子なら「おじちゃん」と話しかけに行ったって不思議じゃないのに、靖子ですら家の中に居るオオカミじじいをガン無視。
そして、オノが手に入らないとオオカミじじいの元にはたどり着けなかった記憶があるのですが、なんでそんな陸の孤島にオオカミじじいっているの?
大人は使える別のルートがあるのでしょうか…。
色々総合すると、オオカミじじいって違和感のある存在すぎるんです。
・あまり言及されない
・ボク以外の登場人物との会話が無い
・一人だけなんか回想映像がある
・山から下りてきても息子にすら話しかけられない
・夏休み後半忽然と姿を消す
…怪しい!けど、EDに元気よくいるから死んではない!
…ということで、わたしの最終的な見解は『オオカミじじい別次元説』。
死んではないけど、認知しにくい次元にいってしまったんじゃないか、という説です。
なんでボクと話せるのかは詳しくは不明ですが、ボクは犬の死骸(オオカミじじいが狙撃したオオカミ?)との対面したりもしており、あらゆる次元を駆ける主人公補正があると考えられるからです。
オオカミじじいはオオカミを諦めたけど、実際問題では諦めきれてない。
その浮ついた気持ち、というか、定まっていない心がオオカミじじいのいう"次元"をふわつかせているのかな、と思います。
一種、社会的な死(制裁)を受けオオカミじじいは他者から認知されない(無視?いないものとされる?)次元に行ってしまったのではないでしょうか。
なんかかわいそうすぎる気もしますが、この『社会的な死によって次元が(変人のように)違うように扱われている』という説が一番しっくりきます。小さな町だからこそある一種の村八分、のようなものなのでしょうか。
よくよく考えると洋も大人たちとの会話はありません。靖子やタケシ、シゲルがこちらの次元につなぎとめているような、子どもはちょっと変わってても仲間外れになるような『次元越え』はないかのような扱いだと思いました。
オオカミじじいも洋も変人だけど、そこには大人と子どもという大きな違いがあって、”変人”であり”次元が違う”くても子どもであるボクには関係がない。
夢のような幽霊や、オオカミ、それらにボクが出会えるようにオオカミじじいとボクは会話ができるんだと思いました。
===
◆ちょっとはみだし
ぼくのなつやすみ(無印)ではオオカミ娘という大学生のお姉さんが出てきます。
…このお姉さんも”変わり者”で、大学では友達がおらず浮いているっポイ。
ボクが話しかけるとテンションの高い日(婚約することになったり)もあれば、一言しか返事をくれないとこもあるような気分屋さん。
たしかに、友達になるには大変そうな人です。
彼女も、2のオオカミじじい同様”いるかどうかわからないオオカミ”を追い求めています。
作品を続けてやることで、オオカミ〇〇と称される人は人間社会における”変人”と呼ばれる人種であり浮いていることが分かります。
変だといわれ浮いているオオカミ娘とオオカミじじいですが、確かに正確には起伏がありますが普通の人。二人ともただひたすらに夢を追っているだけ。なんか、言いようのないエモさを感じてしまうのは私だけでしょうか。
ぼくのなつやすみ2◇語るだけ《その3》
ぼくのなつやすみ2のネタバレを含む感想、お語りです。
ゲーム内容を知っている前提で話を書くので、ゲームをしてから見てね。
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◇
相良家
第二の主人公なんじゃないか、と別記事で書いた靖子の家族。
相良さん一家ですが、みんなめちゃエモです。富海をエモの渦中にしている犯人一家です。今回はこの相良家についてお語りしたいと思います。
家族の構成ですが、富海で暮らしているは父方のおじいちゃんと靖子の妹の光の姉妹の三人です。
(作中の)今年からは靖子は東京の高校に進学しており、現在は東京で下宿中。そのため、普段はおじいちゃんと光の二人暮らしのようです。
おばあちゃんは10年くらい前に心臓病を患い既に他界、靖子の父(靖成)は芸術家で画家をしていた天体マニア、既に他界しています。
そして、靖子の母である静江も現在東京でバリキャリとして暮らしているようです。(光が東京には静江の「新しい家族」がいると言っているがそれは静江の実家のことなのか再婚先なのか不明)
以上の6名がエモ相良家です。
エモを助長させているのは複雑な家庭環境と、その複雑さを解決するためのキーである父親が既に他界しているため決着がつかないところや、家族みんな【いい人】であるので複雑な絡みにやりきれない寂しさを感じさせます。
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》
妄想なのですが、靖子と光の姉妹って名前の雰囲気が違いすぎませんか?
靖子はお父さん(靖成)から一字とってる…と言っても光はなかなかハイカラな名前に感じます。
私、3人兄弟の末っ子なんですけど両親の中が狂ったように悪くて、父の趣味と母の趣味が全然違っています。互いを尊重するという感覚も欠如しているので、兄弟の名前に全く一体感が無いんです。なんか、その香りを感じました…。
どちらかを尊重する両親なのだとしたらタケシとシゲルのようななんとなく統一性…というか靖子と光のような異質感はないんじゃないかな、と思いました。
敢えて雰囲気を違うようにする!というご家庭もあると思うのですが、実際ゲーム内描写で馬が合わなかったとされる両親ですから、どちらかがそれぞれ名前を付けたんじゃないかな、と感じました。
そういう細かいところでも両親二人が合わない…という暗喩なんじゃないかと勘繰ってしまいます。
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◇
靖子について
高校1年生。今年の春から東京に下宿しており、なかなかにかしこい進学校へ通っているらしい。
お父さんのことが好きで、富海に帰省した際もお父さんの部屋を自分の部屋として利用している。反対に母親の静江との仲は険悪。もう何年も喋っていない。
妹である光とは仲良しのよう。
発言の節々から芸術的なところを感じるのでそこはお父さん譲りなのかも。
周りにはお母さんに似ていると言われるらしい。(頑固なところとか?)
》
靖子は海も空も好き
靖子はよく光と海に入りに行ってます。泳ぐのが好きだとも明言しています。
そして、きっと空も好きなんだと思います。
それは、お父さんと公園で星を見ていたという話を慈しむように話したり、洋の星座雑学を嬉しそうに聞いたりするところからもわかります。
▼別記事で海と空について書きました。
この記事になぞらえて、海は現実・空は夢と考えると、靖子はそのどちらも捨てきれない。いうなれば『青春真っただ中』の大人でも子供でもない時期なんだと思います。
空も好きだし海も好き。空に夢見ることも辞めたくないけど現実だって見えている。高校一年生ってそんな年ごろだったような気がします。
そして、空と海というと靖子の両親が浮かぶと思います。
靖子はお父さんのこともお母さんのことも大好きなんだと思います。
◇
静江について
海が好きな女性で、いまでいうバリキャリ…みたいな人なんだと思う。
交通遺児の奨学金団体に勤務していて、自分のことを正義の味方と称するも、自分のことも経ちは自分のわがままで親のいない現状にさせてしまっていることに負い目を感じていて「ちょっと悪い正義の味方」を自称している。
旦那さんとは馬が合わなかったらしい。
旦那さんは天体オタクでずっと空を見ている人だったらしく、もうこの時点で我々プレイヤーは海を見つめ続ける静江とは相いれない存在だと旦那のアバターを見ずとも理解ができます。
そして、静江と旦那は細かいところで馬は合わなかったものの、なにかしら大きな喧嘩や要因があって離れ離れになったわけではない…ように感じました。
これまでの積み重なったストレスなんかが原因なんでしょうか。
お墓参りをしている静江と話すと「(旦那は)結構いいヤツなんだ。こんなに早く死んじゃうんだったら、逃げないで、もっと本格的にケンカしてあげれば良かった。」と言います。
静江はこの発言の通り、この富海の町から逃げたんです。
この発言から、旦那に嫌気がさして出て行った。とか、大げんかになって飛び出していった。という可能性が消えるんじゃないかと思います。
本当にただまっすぐに「ウマが合わなかっただけ」なんだろう、と感じます。
登場人物皆の話を聞いていてもあそこの夫婦は喧嘩ばかりだったとか、静江さんがけがを作って泣いていた…とかそんな話は一つも聞きません。
なんなら静江自体も旦那さんのことを「いいヤツなんだ。」と言っています。
》
静江と靖子
お互いに「嫌われている」と思っているけど、互いを気にしあっている二人です。
静江は家を出ていくときに、真ん中の通路のドア鍵をもって富海から逃げ出した。そして、そのカギを返す前に旦那さんが他界してしまいました。
幼い頃プレイしていた時は「返すタイミング失ったんだな」くらいにしか思っていなかったんですけど、まず、どうしてそのカギを持っていったんだろう、と今は考えてしまいます。
作中では「わざと意地悪で持っていった」と言っていますが、静江ちゃんはきっと《家族とのつながりを持ったまま富海から出ていきたかった》のだと思いました。
靖子はしきりに母静江がカギをどうしているのか気になっています。
それはこの家族に残った唯一の物的絆だから。
「我が家のノドに突き刺さった大きな骨」と靖子は表現していたけど、本当にそういうこと、だと思います。
知らん顔したくてもできない、違和感がある、痛い、どうにかしたい。と思うものであり、それは静江ちゃんの狙いだと思いました。
けど、靖子は「それはそれで気に入っている。」と言葉を締めくくります。これって、静江との絆が残っている今の状態は嫌ではない、ということだと私は感じました。
》
家の鍵
この鍵に関しては「返して」と言いに来てよ。というのが静江の本音なんじゃないか、と私は感じています。
痛いでしょ?気持ち悪いでしょ?「鍵を返してよ」って顔を合わせて言ってくれたっていいじゃない。ということを遠回しに静江は思っていたんじゃないかと思うんです。そしてそれに負い目を感じてるんです。素直になれない自分、こどもっぽいことをしている自分に。
静江はきっと「帰ってきて。鍵、返してよ。」と言ってほしかった。きっと、言ってほしいと渇望していた声の相手は旦那さんです。
だって、旦那さんの部屋の鍵なんですもん。旦那さんが家族に会うためにはまず部屋から出て、外を通って迂回しないといけない。不便ですよね。
静江は旦那さんである靖成を家族から引き離そうとした?のではないかと感じました。距離的にも、なんでも。そして、富海の家族の中で一番心が一番離れている静江の立場に立たせようとしたのかな…とか考えてしまいました。
けど、旦那さんが亡くなってからはどういうわけかその対象は靖子にすり替わっていたのかもしれません。旦那さんの部屋を、どういうわけかずっと住んでいる光やおじいちゃんではなく普段は下宿している靖子が使っている、ことにも関係しているのかもしれません。
そしてその反対に靖子は「ゴメンね、返しに来たよ」と言いに来てよ。と静江に思っていたことでしょう。
靖子が「お母さんに似ていると言われる」という部分はここだと思います。
発言や顔立ち(皆キレイキレイ顔ですが…)をみると、静江ちゃんの方がキリっとしてるかんじなのかな、と思うので内面の部分が似ているということなのではないでしょうか…。
頑固で、相手からアプローチしてほしくて、自分から動くのは怖くって。
そして二人は、お互いに微妙な距離感を保ったまま「話しかけに来てよ」アピール合戦をしていた、ということです。
靖子は静江の住む東京の高校へ、静江は毎年盆に訪れて茜屋のベランダにこれ見よがしに立つ。
二人とも互いに勇気を出せばいつだって話しかけれたし仲直りができたはずです。
けど、作中ではついに二人の話す姿は見られません。
それは二人があまりにも似た者同士だったから、です。
子どものような我儘、意地だとわかっているけどやめることができない二人だから、うまく交わらず静江が【降参】、【諦め】る形で二人の関わるための唯一といっていい物的絆を置いて行ってしまったのです。
「茜屋に置いてってないかなあ」と、靖子は静江の持っている家の鍵についてボクに話していました。
これは、一応ゲーム上のヒントなのかもしれないけど、靖子と静江の思考回路が似ていることも表しているんじゃないか、と感じました。
まるで靖子の発言を聞いていたかのように茜屋に鍵を置いて帰ってしまった静江。
鍵を置いていくのにわざわざハンカチを敷き入り口から入った時にすぐわかる向きに置かれていました。
大きくなってプレイしなおしたとき、静江がこの家の鍵を大切にしていたことが丁寧にハンカチを敷いていたことから伝わるし、「誰か靖子に返しておいて」という我儘が置かれていた場所から推察できます。
》
静江はどうして海が好きなのか
茜屋で会話をし続けると、静江が海を好きになった話が分かります。
…静江のする海の話はなんだか暗い話ばかりだと思いませんでしたか?
私めっちゃこの人暗いな…と、小さい頃からずっと思っていました。
「夜の海をじっと見ていると、時々、沸き立つ白い波だけが、暗闇の中に浮いているように見えてさ…、なんだか自分が暗闇に吸い込まれてしまうような、不思議な気持ちになってこない?」
「昔の海はね、地球の端の方に行くと、滝になって、下に落ちてたんだよ。」
夜を海を見つめて、暗闇に浮く白い波に自分が沈み込むように思える…。これってめっちゃ追い詰められてる人に思いませんか。
旦那さんと細かい部分で話が合わず、ほんとは働きたいのに働き口もないような田舎の富海でささやかな主婦生活、優しい親戚と町民に囲まれているのに不安を抱えている自分、いろいろな鬱憤がとぐろを巻いて、一種の自殺願望のようなものが静江に湧いてしまったようにも感じました。
しかも、地球の端まで流れ着けば滝に紛れてどこかへ落ちる…宇宙に捨てられる…ような、話の順番やタイミングが秀逸というか、静江の話はいつも死や終わりを連想してしまいました。
》
どうして富海の人は「いじわる」と静江は言ったのか
静江が「心の優しい人はやさしい人と。性根のまがった人はやっぱりそういう人とめぐり遭っていく」と話したことから、僕が「じゃあ富海の人はいじわるだ」と言いました。
それは、静江が正義の味方だから。
反対の立場である富海の人は「いじわるだ」とボクは言ったのです。
そしてそれをきいて、静江は「え?」と一瞬困惑しながらも「ここの人たち、本当に意地悪だよねぇ…」と頷くのですが、どう考えても富海の人たちはみんないい人です。
それはプレイしていれば嫌でもわかります。
家族を置いて出て行った静江と、そんな静江に何も言及せず笑顔で迎える富海の人たち。
どっちがいじわるか、と考えたら正直一目瞭然なのです。
なので、ボクは言葉のまま「その理論で言ったらいじわるだね」くらいの温度感で話したのだと思います。だって、子どもだから。
それを言われた静江は「いじわる=おばさんと相容れない」という風に解釈し、きっと「本来は自分がいじわる側」であることを了承しながら自虐のような気持で富海の人たちを「いじわるだよね」と言ったのだろうと私は感じました。
◇
光について
基本的には《占い》をするゲームのイベントヒント要員だけど、相良家におけるボクのような存在。
周りの関係性を理解していない様な顔をして、なんとなく察してる。
そして自分がどうしたらいいのか正解がわかってない大人になりきれない子ども。
光は明るくてねこっかぶりでツンデレだけど、家族や命について人一倍考えている子。
虫はすぐ死んでしまって可哀想だと思っているし、猫が死んだら自分のテリトリーである畑に埋めてお墓を作ってあげる。生きている猫たちにはこっそりエサをあげている。
…きっと、祖母や父の死は光のもっともっと幼い頃の出来事だけど光はきちんとわかってて生きているものはできる限り大切にしなくてはいけないし、死は悲しくて尊ぶものだと理解しています。
そして、《家族》に関しても独特な価値観を持っているんだと思います。
飼っている犬、ケン坊のことは家族とは呼ばず「友達」と称したとき、私は少し違和感を覚えました。あれ、家族に執着してるのかと思ったけど、ケン坊は家族じゃないんだ?と思いました。
おかあさんのあっち(東京)の家族とも暮らしてみたいといったり、ボクくんの家族に入り込もうとしたり…。
光は喋れば喋るほど矛盾があって、こう、愛着障害の子どもと対話しているような違和感があります。
猫を被ってみたり、やってきたばかりのボクにはさえないと罵ってみたり。
光は自分の家族と認めた人に対しては境界線がほぼなく、お母さんの静江の家族、認めたボクの家族をもう自分の家族のように思っているのかもしれません。
◇
じいちゃについて
数えで73歳になる診療所で働くおじいちゃん。
こどもっぽいとボクに称されるほど元気なおじいちゃん。
「ジェットコースターに乗りたい」だったり「歯医者が怖い」というところから子どもな部分がチラ見えしている可愛いおじいちゃん。
おじいちゃんはとっておきのエモイベントがあり、もう労りの肩たたき1億回したい。じいちゃが地面に埋まるほど肩をたたきたい。
イベントで、盆休みにはいったあたりからおじいちゃんは少し元気がなくなります。
ため息ばかりついて、家でも机でしょんぼりしてる…。ボクくんが話を聞くと死んだおばあちゃんの夢をみるそうで、体は元気らしいのですが、もうその落ち込み方すらもエモ。
》
じいちゃとばあちゃ
まず、じいちゃはばあちゃのことがめっちゃ好き。
結婚してすぐは潮館の家に住んでいて、好きすぎて糠漬けかきまぜてるおばあちゃんを後ろから眺めてたら目が合って微笑まれた…そして、それはこれは忘れられないなあと思っていた思い出、その思い出を何度も夢に見ているみたいでした。
それは幸せな思い出のはずなのに、きっと見れば見るほど会いたくなって会いたくなって、けどばあちゃは死んでるから絶対絶対会えなくて、胸が苦しくなるのでしょうね。
身体は健康だし別に自殺願望があるわけでもないんだけど、おばあちゃんに会いたくてその方法を求めて心は揺らいでる…。
少年のようなおじいちゃんの心境に「えも~~~~~~~~~~~い」と海に向かって叫びたくなりました。何なら叫びました。
…それと同時期のお盆にボクは診療所の病室で不思議な少女に会います。
明言はないんですけど、色々総合するとこの少女は靖子のおばあちゃん。
つまり、おじいちゃんのお嫁さんだろうと考えられます。
おじいちゃんとこの不思議な少女の二人はお盆の終盤、一緒にベッドに腰かけて恋人のようにお話をしています。
「会いに来てくれて、本当にありがとう…」
「ふふっ、どういたしまして」
と会話してるんです。
えも~~~~~~~~~~~~~~~~~~い!
ばか!ばかばか!!死人が出るえもさだよ!え?もう死んでる?だめ!だめだめ!こんなのってだめ!あ!やめないで!やめないで!
…
じいちゃは少し、死ぬのを楽しみにしているようなそんな感じ。早くおばあちゃんに会いたいなあと恋焦がれる少年です。
けど、ばあちゃは「そんなこと言わないで」と現実を見るように諭すのが最高にエモなのでエモいです(言語能力が死亡)。
夢想している少年と、現実を見る少女の対比がエモエモのエモです。
私は自分がおじいちゃん子で、おじいちゃんがおばあちゃんのこと大好きだったのでもうおじいちゃんおばあちゃんの話に死ぬほど弱いんですよ。
エモすぎて何度あの盆を過ごしたかわからない…。
書き出したら終わらない…。察してきました。
今回は相良家について、でした。ここまでです。
実はもっと語れるんですけど、文章力とか、脳のキャパが限界なので一旦落ち着きます。
ぼくのなつやすみ2◇語るだけ《その2》
ぼくのなつやすみ2のネタバレを含む感想、お語りです。
ゲーム内容を知っている前提で話を書くので、ゲームをしてから見ていただきたいです。
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空と海
この作品で大切になってくるのは《空》と《海》だと私は感じていて、よくそれらに想い馳せる大人のセリフがあるんです。
例えば、空が好きで天体オタクだった靖子お姉ちゃんのお父さん。
そして、そんなお父さんを好きになった海が好きな靖子お姉ちゃんのお母さん。
けど二人は馬が合わなくて、喧嘩別れをして、結果お父さんが先に亡くなってしまいました。
そして、夕日が好きだというサイモンと凪咲さん。
凪咲さんの名前に入っている、凪というのは風力が0である状態であり風がやんで波がおだやかになること。海上の静かなこと。を指しています。
空に想い馳せ広い世界を渡り歩くサイモンと、海を意味する名前を持ち田舎にあこがれて東京から狭い世界(田舎)である富海へやってきた凪咲さん。
海が好きな母親に似ていると言われ、それとは関係なく海で泳ぐことが好きな靖子。
そして宇宙にロケットを打ち上げるのが夢の洋。
病室から海と、靖子たちの家を眺める謎の少女と、
宵の明星を探すおじいちゃん。
この作品では様々な人が海と空で繋がっているし、対比表現がされています。
…顕著なのは靖子お姉ちゃんの両親ですよね。
空ばかり見ているお父さんと、海ばかり見ているお母さん。
靖成…が靖子のお父さんの名前なのですが、
意外なことにこの靖という字は『「青」がじっとして澄み切った水の色のことで、「静」と同じ意味を持ち、清く澄んでいる』というような水にまつわる名前です。
しかも奥さんの静江の名前にも入っている静という字に繋がりのある字なんです。
そして、奥さんである静江の名前に入っている江は「海などの一部分が、陸地に入りこんだところ」という意味で、海が関係しています。
入り込んだ…という言葉を見て富海から東京へ行ってしまう静江の行動を重ねてしまいます。
名前は繋がりがあるのにどういうわけか分かり合えなかった二人…というところでしょうか。
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静江の心に残った風景は、雲から稲光が出て次から次に隣の雲へ稲光が伝染する…という大好きな海を呆然と見ていた時に起こった空の風景でした。
このエピソードを聞いて思ったのは、静江は自分と旦那さんが分かりあうことはできない、とより一層思ってしまったのかも…ということ。
稲妻が次々と雲に伝達していき、会話をしているみたいだった…と静江は話していましたが、自分である海はそれを眺めているだけで何を話しているかわからない。
夢を語る旦那さんをみても理解しがたい部分があったのかも、しれません。
靖子お姉ちゃんが作中で話してくれる、『サヤエンドウの話』にも共通して二人は違う未来を見ていたことがわかる話なんだと思います。
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『空』と『海』は何を表しているのか
きっと、この世界において抽象的にいうと空は夢で、海は現実なんだと思います。
そして空は黄泉(死)であり海は現世(生)なのかな、と取れる場面も多くあります。
ざっくりいえば互いに切れない縁のある真反対のもの、のようなイメージです。
空の色に海は染まって、基本的に両方同じような色味で存在してる。
同じようで違う。
傍にいるようで遠い。
絶対に交わることは無いけどずっとお互いを見つめあってるような、そんな関係。
空(宇宙)に底は無いけど、海は底がある。とか、似ているようで全く似ていない存在の大規模バージョンって感じです。
芸術家で夢想家なお父さんと、奨学金団体で働く現実的なお母さん。
夕日がウィンクしたところを撮影する写真家のサイモンと、堅実に看護士という仕事をする凪咲さん。
死んだ奥さんに会いたい、過去に捕らわれるおじいちゃんと、子どもが出て行った後のおじいちゃんの未来を心配するおばあちゃん。
似ているようで違う二人が作中本当に多く出てきます。
これらはどちらが悪いでもないし、分かり合えないわけでもないと思うんですけどね。
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サイモンのセリフ
「夕日が海に入っていくとき、ジュッ!っと音がするでしょ。」
という断定的なセリフから、夢と現実の交わる場所を求めているようにも感じました。
上記したように、海と空は絶対に交わらない。けど、二つの間をどういうわけか太陽は行き来する(ように見える)わけです。サイモンは夢と現実が交わるその一瞬をずっとずっと追い求めて、それが「富海」にあると思い長期滞在をしている、ということです。
「アポロ宇宙船から見える、地球の夜の部分で、一番明るく輝いているのは、日本海のイカ釣り漁船らしいよ。…今、夕日に照らされて、光り輝く、この海辺の色は、あの宇宙船の窓から、どんな色に見えてるのかな?」
というセリフもあり、これも空と海を繋げる発言だと感じました。
空からは海は見える、繋がっている。
空から一番明るく見える場所は海に浮かぶ現実(イカ釣り漁船)である、ということなんでしょうか。
海からは宇宙船が見えたのかどうか、というと微妙なライン(多分見えないよね)。
空からは海が見える…というのはこの発言のある時期はお盆?くらいだったかなと思うので黄泉の世界からはご先祖様が生きている子孫が見えるから見守っているよ…というお盆ネタも含んでいるように私は感じました。
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空と海を繋げるもの
作中で挙げられているのは
【夕日】と【ロケット】、そして【入道雲】の3アイテムです。
洋と靖子はロケットが間に入り、空と地上を結びます。
そして、サイモンと凪咲は夕日が間に入り、空と海を結びます。
こんな感じに前の項でどこか対比してている二人には間を結ぶ何かきっかけがあるように感じました。
ですが反対に、別離してしまっているカップルもいます。
靖子の両親は、父親が死んでしまったことで完全な空の存在になってしまいました。そして、静江はそんな空を静観している海です。
二人は永遠に交わることがありません。
そして、じいちゃとばあちゃもばあちゃの死によって永遠に交わることがありません。
じいちゃは宵の明星が見つからないと探しているシーンがありますが、宵の明星は限られた時期にしか見られない金星のことで、お盆という限られた時期に少し帰ってきたおばあちゃんを探している…と捉えてもロマンチックな気がします。
…お盆エモイベントでもある『じいちゃとばあちゃが恋人のように話すイベント』は、本当にあったと思いたいところですが、じいちゃの話を聞いたボクの見た夢(想像)だったのかもしれないですね。
靖子の両親、そしておじいちゃん夫婦はそれぞれ『死』という概念が二人の間に立ちはだかっています。
ですがOPを思い出してほしいのですが、ナレーションで「海の上に白い入道雲が浮いていた」と表現されています。
私は改めてプレイした時にこのナレーションを聞いて、この夏の時期だけ空と海を繋ぐ大きな雲が、お盆という時期にも合わさり、なんだかすごく神秘的に感じました。
空に浮かんでいるはずの入道雲が「海に浮いている」と表現してすることによって、海と空の境界線を交らわせているんだと感じました。
また、靖子と洋の一日ですが。
昼は海辺の洋の家で一緒に受験勉強をして、暗くなれば二人で夜空を眺めて星について話す、この流れは現実と夢の交差が描かれていると感じました。
…二人の話でひとつ気になるのは、靖子に海に誘われた洋が「泳げないから」と断ってしまったところ…。
泳げなくてもきっと靖子は来てほしかったんじゃないかな…なんて考えてしまってあまずっぺさにめがしぱしぱしました。
今回は作品でよく中止される空と海について語りました…。
噛めば噛むほどエモエキスがでてくるスルメみたいなゲームすぎて困惑してきました…。実家にあるプレイステーション2とぼくなつ2を奪還してきたい気持ちでいっぱいです…。
ぼくのなつやすみ2◇語るだけ《その1》
ぼくのなつやすみ2のネタバレを含む感想、お語りです。
ゲーム内容を知っている前提で話を書くので、ゲームをしてから見ていただきたいです。
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最初に
ぼくのなつやすみシリーズってしってますか。
私は初代と、ぼくなつ2(リメイクなし)をプレイしたことがあるのですが、んもうどうしようもなくすごく好きなシリーズです。
…私の両親はゲームが好きで基本的なゲーム機は家にあり、兄と姉がいるのでゲームソフトまでもがいつの間にか家にある環境で「ぼくのなつやすみ2」もいつの間にか家にあったソフトです。
欲しがらなくてもいろいろなゲームプレイができる環境、お上品な家庭からみたらオタクを育てる害悪環境ともいえるでしょう。ちなみに人生で一番ハマったゲームはバーチャファイターです。
初代のぼくなつは、兄にバグを教えられそれから恐怖でプレイできなくなってしまい1回くらいしかプレイしたことが無いのですが。
ぼくなつ2は死ぬほどやりこみました。
少なくとも5,60回は夏休みを繰り返した記憶があります。
基本的にゲームは下手で、現実世界でも不器用で非効率な人間なので1プレイですべてのイベントを見ることができない、やりこみを達成できない…ということで何度も夏休みを繰り返すことになってしまいました。
特に虫相撲が苦手で何十回夏休みを繰り返しても『グレートオオキング』や『でけえザリガニ』に私の虫たちの命は散らされ、夏休み中に山には登れずリビングで蹲り号泣した覚えがあります。
この8月はこのぼくなつ2を語りたいと思い、記事をいくつか書く予定です。
社会人になってからがっつりした夏休み、というものもなく友人も少なく、孤独な私には仮想の夏休みを思い出すのがお似合いです。
…
舞台は静岡がモデルの【富海】という海に囲まれ、船で町(潮館)に出るタイプの田舎。
海もあり山もあり、大人になった今はもうそこに訪れただけでぼーっと座って夏休み過ごせそうな場所です。
もちろん、ゲームでも全く何もせず毎日過ごすだけで夏休みを終えることもできます。
ですがもう気になることが多すぎて多すぎて、きっとゲームをプレイし始めたら何もせずにいることはできないと思います。
ちなみに私は自我の無い7歳ごろに初めてプレイしたので、初回プレイは何もせず朝顔だけ育てて完走した猛者ですが、基本的にはイベントをこなす人が多いと思います。
自我を持ってからは引きこもっていた中学生頃と、社会人1年目にストレスによる現実逃避のため何回もプレイしたのですが、自我のなかった子どもの頃とは違った気持ちでプレイ出来ました。
とりあえずこのゲームはすっごく、自由です。
上記したように何もせずゲームを終わらせてもいいし、虫取りや釣りだけをしていてもいい。子どものような好奇心で、いろんな人に話しかけていろんな人との関わりを大切に舐め回すようにプレイしたっていい…。
すごく自由度が高くて、プレイヤーにスタイルを委ねている癒しゲーだと思います。
なにより、このゲームの推せるところはイベントが全部エモい。
発売したあの頃はエモいという言葉が無くて言い表せない部分もあったんですけど、とりあえずエモいんです。やったことある人はわかると思う。エモい。
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◆登場人物を大まかに◆
ボク
主人公であるもののプレイヤーを置いてけぼりにする無鉄砲さを持つ天然都会少年。小学3年生。ひとんちの犬逃がしたり、ハチの巣突いて刺されたり、、、
いらんことはよく言うのに必要なことは言わない。あと顔がでかい。
自己紹介するときは「ボクはボク」とコジコジのような自己紹介をする。
親戚のおじちゃん家族(荒瀬家)
ボクの親戚で、富海で民宿《茜屋》を営んでいる。ボクが夏休みの間預けられている家。
おじちゃん
大雑把な性格で、高所恐怖症。夕飯を食べたらすぐ寝る。
ボクが遠くまで遊びにいきすぎると、夕飯の時間に突然表れて「めしだぜ」の一言で連れ戻される。
おばちゃん
明るくてチャーミング。
朝昼のご飯を死ぬほど作る。肩たたきすると10円くれる。
タケシ
小学5年生。正義感があり好奇心旺盛。将来の夢は教師。
シゲル
小学2年生。びびりで意気地なし。すぐキレてくるものの数秒後にはめっちゃなれなれしくしてくる。あといつもたくさん疑問を抱えてる。夜に話しかけると基本「どうしてかな?」系の話をしている。
光が好き。
相良家
靖子お姉ちゃん
主人公ボクくんと一緒の船で富海に帰ってきた高校1年生。
現在は東京の高校に通うため下宿しているが、もともとは富海の生まれで夏休みに帰省している。
この作品の第二の主人公だと思う。イベントが多すぎるしエモの神に愛されてる。
光
ヤスコの妹。小学2年生でシゲルと同級生。シゲルはいじわるしてくるので嫌い。
《占い》でどこにいけばイベントが起きるか教えてくれる一種ヒント役。
じいちゃ
靖子と光のおじいちゃん。73歳。
富海の診療所で医者をしている。
静江
靖子と光のお母さん。お盆にだけお墓参りに富海にやってくるが基本東京に住んでおり子どもたちとは別々に暮らしている。
靖子と仲が悪いらしい。
ケン坊
ボクが逃がした犬
仲川家
洋にいちゃん
中学3年生。受験を控えているもののロケットの打ち上げ実験に精を出している。
ロケットの打ち上げは失敗続きだが、夏休み中にもう一度ロケットをあげられるよう準備を続けている。
オオカミじじい
洋の父親の炭焼き職人。山奥の炭焼き小屋に住み込むような形で働いている。
昔オオカミを探していたため変なあだ名をつけられた。オオカミを見つけたものの実物を誰にも見てもらっていないので見つけたことを誰にも信用してもらえていないあわれなやつ。
夏休み終盤忽然と居なくなる。
ほかの主要人物
サイモン・ライヒ
外国人の写真家。日本語が上手。
谷口
無口な中年男。夏休み終盤にやってくる。
おばちゃん曰く、根は優しそうとのこと。
芳花
ボクからは女子大生と呼ばれている美人のお姉さん。活発な人でギターが上手。
『アルハンブラの思い出』しか弾けないらしい。
凪咲
診療所の看護婦さん。
船頭
潮館と富海を結ぶ船を運転しているおじちゃん。
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最高のOPとED
まず、この作品の何がいいってOPがいいんですよね。
初めて一人で船に乗って緊張しているボクと、帰省にゴキゲンな靖子の対比、そして靖子がボクに気が付き声をかけて、物語がはじまります。
船着き場に来ると嬉しそうな靖子と、困ったようなボク…緊張していて解け込めていないだけ…という感じなんですけど、対比がすごい。
サイモンに写真を撮ってもらったときも、緊張してオスマシポーズのボク。
そう、OPでは基本両親に付き添ってもらわず子ども身一つで記憶にない親戚の家にやってきたボクは、緊張から顔がこわばり口を一文字につぐんでいるのです。
靖子お姉ちゃんに話しかけられたら少しにっこりしたけど。これから楽しい夏休みが始まるぞ~~!っていうよりは、これからどうなるんだろう、という不安の方が大きく感じられ、子どものリアルを感じました。
(…ボクくん、最後EDになるとにっこにこでかわいい。最初と最後のボクくんの変化表現も、楽しかったね!という気持ちになれて好きです。)
…とにもかくにもオープニングではこの作品の主軸となる主人公は緊張しているボク。
だけど、一緒の船で一緒に富海にやって(帰って)きた靖子は明るくて…こっちが主人公なんじゃ?と感じてしまうような対比のされ方だったと思う。
…これがすでにめっちゃいい。靖子が先に帰省していて、富海に来たボクくんと出会うんじゃなくて船で一緒になるっていうのがいい。一番初めに気心の知れる都会を知っているお姉ちゃんという立ち位置に入り込んでくるのすごい…。
そしてこんな予感がするはず。きっとボクは靖子お姉ちゃんが大好きになる。
優しくて、気にかけてくれて、おじさんちの兄弟になじめていない序盤のボクくんは靖子お姉ちゃんに富海を案内してもらったり、好きな時にお姉ちゃんを尋ねてきていいよと許可をもらって心に余裕ができる。
もう靖子お姉ちゃんが大大大好きになる。私はなった。めっちゃすきになってストーカーのように毎日毎時間靖子お姉ちゃんに張り付いた思い出が記憶に新しい。
私は一時期こじらせすぎて自分をボクくんだと思い込んでいたので、靖子お姉ちゃんを心の綱にしていた時期もありました。(どゆこと?って感じですけど私もどゆこと?って思ってます。)
そしてEDですが、これはプレイヤーの分身であるボクがどれだけ充実した夏休みを過ごしたかで大筋は変わりませんが内容が変化します。全部で3種類あるようです。
やりこみしたくなるいい分岐だと思いました。
私は常にノーマルかバッドエンドばかりで、ハッピーエンドは大人になってから見ました。(海に落ちたバルブが永遠に見つからず大泣きしました。)
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ナイスな音楽
そして、次のこの作品でいいのは音楽・・・・・・・・・・・・・・・・。
何そのチョイス・・・・・・・・・・・・・・・・。って感じの曲が流れる。
子どもの頃の夏休みがテーマで、しんみりとしたクラッシックが流れる。子どもの頃効いたときは何とも思わなかった音楽。大人になると物悲しいと感じる音楽がうまいことチョイスされてる…とおもいました。
》
夜、靖子お姉ちゃんの部屋に訪れるとなかなかの音量で「エリック・サティのレコード」が流れています。
全四曲が永遠にリピートされるのですが、公園の横の坂を上り、だんだんレコードの音量が近づいてきてなんだか胸が高揚す不思議な感覚を味わえます。
…この外まで音楽ばんばか鳴らすなんて行為、今の時代では騒音問題としてぶちのめされるやつですが、各々の家がぽつぽつと建っている昭和の富海では大丈夫っぽい。
》
『ジムノペディ第1番』
エモエモのエモの代表格がこれ。
そんで、このジムノペディ第1番の何がエモいっていうと、音楽詳しい人はわかると思うんですけどジムノペディは第3番まであるピアノ独奏曲で、このジムノペディ第1番は「ゆっくりと苦しみをもって」「悩ましげに」という弾き方の指示がついています。
…既にエモいですよね。
ピアノ弾く人はわかると思うんですけど、この曲はテンポ遅くて簡素なんです。余分な音が無い、ような感じです。
簡素なんですけど簡単というわけではなく、左手が難しいので私はうまく弾けません。
靖子お姉ちゃんはこの曲が好きだといって毎晩流している。
どうしてこの《ゆっくりと苦しみをもって》いる曲が好きなのか。
これは別途記事でも語る予定なんですけど、靖子お姉ちゃんの人生がまさに《ゆっくりと苦しみをもって》《悩ましい》からだと私は感じました。
いやエモ~…。人生と音楽重なってるのエモ~…。
》
『ナマコの胎児』
この曲は指示が有名で、「歯の痛いナイチンゲールのように」というものがあります。
これを見ると、「歯が痛いの」といっていた芳香お姉ちゃんや歯医者通いのじいちゃを思い出しちゃいますね。
左手の三和音がナマコの鳴き声?のような感じで、右手はゆっくり動く…というナマコのおっとり感が前面に出ている曲です。
また、このエリック・サティって独特の名付けで有名な人で、個人的には大好きで有名どころでは『犬のためのぶよぶよした前奏曲』とかがあり、この『ナマコの胎児』も私は名前が好きです。
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『ノクチュルヌ第3番』
5つの夜想曲ってやつなんですけど、私全然この曲馴染み無くて調べました。
第3曲は「やや動きをもって」という指示のある曲です。
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『ジュ・トゥ・ヴ』
日本語訳すると「アナタが大好き」という曲で、過去ハルヒなんかでも使われたエリック・サティの曲の中でもそこそこポピュラーな曲。
私はNHKの夕方クインテットで聞いた覚えがあります。好きな曲です。
洋お兄ちゃんとの再会、お母さん事件で落ち込んでいる靖子お姉ちゃん(三角座りで顔を伏せている)をみながらこの曲を聞いたとき、この曲を選ぶなんてスタッフに天才がいるな…。と思いました。天才でしょ…。
>>これらの夜に流している音楽を総合して考えると…
靖子お姉ちゃんの流しているこのレコードには物語があるように私は感じました。
それぞれの楽譜の指示ではありますが、楽譜の指示は曲の伝えたいこと根本に繋がっていると私は思います。(実際の楽譜が手元にないので検索しての確認になりますが…)
①ゆっくりと苦しみをもって
②歯の痛いナイチンゲールのように
③やや動きをもって
④「アナタが大好き」
この流れです。
え???と思ったかもしれないですけど。
この流れなんです。靖子お姉ちゃんの人間関係の流れは。
お母さんとの関係、洋お兄ちゃんとの関係。
靖子お姉ちゃんはこの二つの人間関係に、何年も何年も悩んで、ゆっくりと苦しんでいます。
そして、「歯の痛いナイチンゲールのように」というものですが、個人的な解釈では苦しみながらも前進する…という感覚かなと思っています(解釈違いだったらすみません)。
苦しみ悩み這いながらも前に進み、ノクチュルヌ第3番ではやや動きを持って…という指示でしっかりと前に進みだします。
そしてその結果「大好きなアナタ」に会えるのではないでしょうか。
》
『フレールジャック』
夜に流している曲以外にも、靖子お姉ちゃんが「フレールジャック」に替え歌をつけていてそれもエモの塊みたいな…元気玉みたいな勢いがありますよね。
グーチョキパーで何作ろうのメロディにもなっているフランスの民謡です。
小さい三毛猫がいつも一人で過ごしていだけど、その後友達ができて楽しい!という歌でした。
その後、また三毛猫は一人ぼっちになっちゃう…というところまで考えて、靖子お姉ちゃんは悲しいから作るのを辞めた、と言っていました。
この歌詞、この夏休みに当てはまる気がしませんか?
まず、ボクと靖子お姉ちゃんは都会の学校でどんな友達がいるだとか、そんな話をしません。
全くの一人ぼっちで孤立している、とかではないのかもしれないけど、心のどこかが孤独なのかもしれない、とも感じてしまうくらい話題に出ません。
そして、富海で友達ができます。
ボクはたくさん出てくる登場人物や靖子お姉ちゃん。靖子お姉ちゃんはボクやイベント中に改めて仲良くなった洋お兄ちゃんなんかです。
ゲームの最後ではボクと靖子お姉ちゃんは船に乗って都会へと帰りますが、靖子お姉ちゃんの考えるのを辞めた歌詞の猫と同じような過程をたどって《一人》に戻ります。
けど、靖子お姉ちゃんは最後三毛猫が一人ぼっりになるラストを打ち止めました。悲しいから。
それは本当の意味での一人ぼっちではないんだよ…ということなのかな?なんて考えちゃったりして。
今回は触り、オープニングやエンディング、音楽なんかについて語りました…。
夏になると何度でもやりたくなるゲームですね。北海道のぼくなつ…やりたいんですけどび~~~~ただけですよね…。