【考察】輪るピングドラムをモチーフから考察してみた【してみた】

ネタバレ※含みます。

作品をご覧になってから読まれることをおすすめします。

また、宗教的、実際にあった事件の話もございます。

不快感等を持たれる方はご覧にならないようお願いします。

 

 

 

 

❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.

イクニ作品はどれも複雑はモチーフが多いです。その中でも一番の複雑さを感じるのがこの輪るピングドラムです。(当社比)
また、私自身この作品めためたに大好きで、年に4回は絶対見直しています。何ならほぼ月1で見ています。異常です私は。

個人的な好みの問題で、今まで見たアニメの中で一番好きです。大好きおばさんです。

 

●モチーフ及びテーマについて

この作品は、現実にあった事件をいくつか地盤に置き、そこから文学作品などで肉付けしファンシーな雰囲気を醸し出しています。
ファンシーの肉を剥ぐとどろどろのリアルが顔を出します。
ダークなテーマなのになぜかふんわり嫌味なく見れる不思議な作品になっていますね。

 

今回は肉部分であるファンシー部分に触れていきたいと思います。

 

輪るピングドラム銀河鉄道の夜


キャラクターやストーリーの根本のモチーフが銀河鉄道の夜です。
銀河鉄道の夜を理解しているとよりこの作品が楽しめます…。

honcierge.jp

個人的にわかりやすかった銀河鉄道のあらすじ、解説ブログさんです。

こうしてみると名前の縛りは銀河鉄道から来ていますね!
(イクニ作品は基本名前に縛りがあることが多いです。)

 

>>名前、モチーフになったキャラクター
晶馬(ショウマ)⇔ジョバンニ
→孤独を感じる少年
冠葉(カンバ)⇔カンパネルラ
→裕福で恵まれているが複雑な家庭を持つ少年
眞悧(サネトシ)⇔ザネリ
→ジョバンニをからかう意地悪な少年
この3人は言うまでもなく、ですが
名前の明言のない"鳥捕り"は多蕗のモチーフかな、と感じます。

・ジョバンニの父
初期の設定では罪を起こし留置所にいる設定だったようですが、
この設定がピングドラムでは生きているのかと思います。
晶馬の父は罪を犯し、捕まってはいないにしても指名手配を受けその子供である晶馬はまわりにからかわれ、肩身の狭い思いをしている。


>>その他モチーフ
・林檎

キリスト教でいう【知恵の実】【禁断の果実】
それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることは禁じられていることを知ることにより、かえって魅力が増し、欲望の対象。(Wikipedia参照)
銀河鉄道の夜』の中では9章のジョバンニの切符が一番印象深いです。
「いかがですか。こういう苹果りんごはおはじめてでしょう。」向うの席の燈台看守がいつか黄金きんと紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないように両手で膝ひざの上にかかえていました。
燈台守が、乗客の青年、少女とその弟。カンパネルラとジョバンニに差し上げるシーンです。

 

輪るピングドラム』では《譲渡される愛》が視認できる形で林檎が描写され、シーンの最後には
「リンゴは愛による死を自ら選択した者へのご褒美である。と賢治は言いたいのだ。」と明言しています。
たしかに、銀河鉄道に乗り合わせた乗客ほとんどみんな"愛による死を自ら選択した者"だったし、ごほうびとして申し分ないほど貰った乗客たちは喜んでいます。

 

→『輪るピングドラム』における林檎とは

林檎は《ご褒美》である。
これは作中明言されているので確実です。
じゃあその林檎の詳細は一体なんだ?と思いますよね。
仮説を立てるなら《林檎=命=愛》です。
冠葉が晶葉に手渡した林檎。
晶馬が陽毬に手渡した林檎。
陽毬が「これがピングドラムだよ。」と手渡された赤い丸。
どれも運命の果実です。神話では、運命の果実を食べると知恵をつけ楽園を追放されます。

 

〇冠葉が晶葉に手渡した林檎
優秀な養子として高倉家に選ばれた冠葉、本当の子どもなのに選ばれなかった晶馬。
けど冠葉は晶馬に林檎を渡した。それは愛でもあり、高倉家でふんぞり返ってすごすこともできた。
でも冠葉はそれをしなかった。晶馬と一緒に《家族》であることを選び、一種の自己犠牲、愛を手渡したのだと思います。

他に可能性を考えるなら、両親の描写を見て信じたくはないのですが、晶馬がネグレクトを受けていた可能性です。
冠葉を養子に迎え、両親は冠葉につきっきりに、晶馬は死の一歩手前になるほど放っておかれ、そこを冠葉から命を分けてもらった…とか。
…この説は薄いと思います。KIGAの会の幹部であるあの二人はそういうの嫌いそうですよね。(無意識のうちにやってしまっていたとかならありえるかも)

 

〇晶馬が陽毬に手渡した林檎
子どもブロイラーで陽毬が晶馬に運命の果実をもらうシーンも、陽毬が《透明》にならないように晶馬が手渡した新しい"命"と捉えられると思います。
新しい居場所を与えて、家族としての"愛"を渡した。という感じなのでしょうか…。(わかってない)

 

〇陽毬が冠葉に手渡したモノ
陽毬が冠葉の命を受け入れ、生き残る未来を手にした。冠葉の唯一夢見ていた光のような未来かと思います。
陽毬はずっと冠葉からの愛を無視し、知らぬふりをしてきていた。そして、冠葉の自己犠牲の上で家族が成り立っていることをしっかり気付いていた。
冠葉に与えられるばかりだった二人が、冠葉に初めて与えた晶馬は自己犠牲、陽毬は愛。それが冠葉にとってのピングドラムになったのかと感じました。

 

◇memo
個人的に時系列がぐちゃぐちゃなのですが、
冠葉から晶馬が林檎を受け取るときは、冠葉の父親が死ぬ前(KIGAの会で冠葉が優秀だと見初められ始めたころ?幹部の子どもである晶馬がKIGAの会に不向きであると思われたころ?)。
なので、双子の林檎授受シーンは二人が家族になる前?
そして、林檎を持った晶馬が陽毬に林檎授受。
そしてそして林檎をもった陽毬が冠葉の父が亡くなった際、冠葉に林檎授受。
この流れがあるのかと思います。
この時点でお気づきかと思いますが、林檎は回っています。

 

・蠍の炎
キリスト教でいう【原罪】
小さな虫などを食べていた蠍が、いざ自分が食べられるとなったときには逃げ周り緯度に落ちておぼれた。その際に蠍は祈った
「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。」
そして、蠍は真っ赤な美しい火となって夜の闇を照らす。さそり座のアンタレスの話が銀河鉄道の夜にはそう書かれています。
その話を聞いてジョバンニは「ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」と言うのですが、もう私は晶馬を思い出してこのセリフでおいおい泣いてしまいます。

 

>>自己犠牲は理想の姿?
この作品内では、一人孤独で周りとの関係の薄い主人公が友人とのつながりや様々な思想のキャラクターに出会い人格が改めて形成されていく。
その中で自己犠牲が深く関わっており、そうなりたいとジョバンニは理想をもつが、「けどそれって…。」と疑問も呈する。
また、カムパネルラはその時すでに《自己犠牲》をし命を落としています。ザネリを助けるためにカムパネルラはすでに溺死している。

輪るピングドラム』では、燃える蠍の魂は冠葉から出てきます。
それは、冠葉のこれまでの人生が《自己犠牲》で成り立っているからです。
真砂子を家に帰すために"KIGAの会"に残ることを決意したり、自分の貰った林檎を晶馬に分け与えたり。
とにかく冠葉は《自己犠牲》を繰り返して生きていました。その自己犠牲は誰かを助けるものなのですから、悪いことでは決してありません。
ですが、その結果、呪い(眞悧)に捕まり《犠牲》の上に成り立つ幸せを《他者におしつける》結果になってしまいました。
陽毬の命のために自分だけの犠牲ではなく、他者の犠牲をも厭わなくなってしまう一種の"獣"となってしまってのです。

 

・「ほんとうのさいわい」とは
輪るピングドラムで言う《ピングドラム》の立ち位置になりえる言葉です。
「ほんとうのさいわい」を一言で表せを言われたら、《自己犠牲愛》かと思います。
作中では、「けれども、ほんとうのさいわいは一体何だろう。」とジョバンニが疑問に思う描写もあり、カムパネルラも「わからない。」と返事している。
「ほんとうのさいわい」は個の究極的な幸せではなく、世界全体の幸せを追い求める中で必須の存在であると私は考えます。

 

『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』
宮沢賢治全集 第10巻『農民芸術概論』」より
…この上記考えが、大きくみた宮沢賢治の《さいわい》に対する思想かと思います。
何かの幸せを願ったときに、幸せを勝ち取るための取捨選択が行われる、そしてそれはだれかの自己犠牲によって成り立っているという考えなのかな、と私は感じました。

例えば、一つのケーキを3人で食べる場面で、ボクは本当は「独り占めして食べたい」それは個の幸せです。
けど同時に「他の二人にもケーキを食べさせたい」という願いもあり、前述の意見とは相いれません。この時点で取捨選択がもう始まっているのです。
また、「平等に分ける」か「自分に多く分ける」か「自分の好きな子に多く分ける」かなど、どうしたら自分が満たされるか、他者が満たされるかの選択がごまんとあります。
この時に「僕はいらないから二人でお食べ」と言ったなら残りの二人は罪悪感があろうとも《幸せ》だろう。
「自分は一番小さいケーキで、」としても他者は《幸せ》を感じることだろう。これらの幸せは《ボクの自己犠牲》で成り立っている。
自己中心的にケーキを一人で食べてしまってはこの《幸せ》を得ることは不可能であり、この何とも言えない状況が『銀河鉄道の夜』でいう《ほんとうのさいわい》です。
《ほんとうのさいわい》を得るためにはボク、個の悲しみがつきものなのです。
ここまで読んで、え?それって幸せなの?と感じる人もいるかと思います。その現象は作中でも起こっていて、確かにジョバンニは《自己犠牲》ができることは素晴らしいと感じていますが、同時に疑問も感じています。
上述している「けれども、ほんとうのさいわいは一体何だろう。」という発言です。

そして、『輪るピングドラム』の晶馬も、ずっと疑問を持って生きているのです。
自分の幸せは「家族皆で過ごすこと」もうこの夢は潰えているようにも思えますが、晶馬はこの願いを叶えるために他者を犠牲にしています。
それは、冠葉の陽毬への想い、陽毬の晶馬への想いです。二人は家族であるが故に縛られ《自己犠牲》を強要されています。

 

・そらの孔

銀河鉄道の夜』では天の川にぽっかり空いた暗闇の孔、暗黒星雲のこと。
暗黒星雲自体はこれから星になる赤ちゃんの星が存在する場所でもありますが、作中ではまるで虚無を表す危険な場所のように記されていた印象です。
その結果、カムパネルラはそらの穴を指し示し、姿を消してしまいました。

輪るピングドラム』では"そらの孔分室"として作中に現れます。
中央図書館の地下61階にある書庫で、たくさんの本(陽毬の記憶)がしまわれています。そこの管理人、司書は眞悧。

 

輪るピングドラム南極物語
私自身この映画作品に明るくなく、最後まで見れていません…。

なので語れることはほぼ皆無です。


多蕗とゆりの苗字が、この作品に出てくるタロとジロに読める。
という発言をツイッターで見て、なるほど!と目からうろこ。
取り残されたもの、取り残されて尚生き残っているものの表れかと思います。

 

 

輪るピングドラムキリスト教

 

まず第一に、銀河鉄道の夜キリスト教が根本にあります。
そのため、輪るピングドラムにもキリスト教が根底にあると考えていいでしょう。
キリスト教における愛、というのは自己犠牲愛と表現できると思います。

≪だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい≫

であったり、キリストがみんなの罪を背負い磔刑にあったり…。究極の愛は自己犠牲であるという考えです。


また、キリスト教における鳥という生き物はいろんな象徴になっていて、
例えばペリカンはイエス、ハトは平和や聖霊、鷲は子どもへの想いや神様のまなざし、鶏は見張り…とかいろんな鳥がモチーフとして出てきます。
ペンギンはよくわからないのですが、キリスト教の方はペンギンは魚だといって食べていたとかはあるみたいですね。(何にも広がらない話ですね)

 

作中では真砂子が、

「南極の皇帝ペンギンよ。氷壁の水際で飛び込むのを躊躇っている大勢のペンギンたち 。」

と、語るシーンがありますが、この作品でペンギンは、自己犠牲のできない愚かな生き物として表現されているように感じます。

   

>>ピンク髪 それぞれのメタファー
イクニ作品でのピンク髪はいつも特別な意味合いを持ちます。

運命を変える人、革命を起こす人として基本は書かれます。

作中にでてくるピンク髪の二人が作品の中で何のメタファーとして存在しているのか考察したいと思います。

 

上項に書いたようにキリスト教において鳥とは様々な象徴になりうる動物であり、作中で鳥となると思い出すのがペンギンです。作中のペンギンはプリクリさまの聖霊のように後について言うことを聞いていますね。
又、眞悧によって二つに裂かれ、概念となった桃果はペンギン(鳥)帽子になりました。大きな分類としてキリスト教においては鳥は上記にあるような平和の象徴、神様のまなざしなどが桃果に掛かっており、桃果は"平和"(秩序)のメタファーのように感じます。

 

桃果と対となるよう書かれている眞悧は、桃果による運命の乗り換えにより裂かれて2匹のウサギになりました。
ウサギというとキリスト教のイベントで思いつくのは、イースターですね。
イースターは復活祭であり、野ウサギが子どもたちに卵やお菓子、おもちゃなどをプレゼントするイベントです。
この復活という部分と、プレゼントするという部分は眞悧に通ずる部分があるように感じます。作中で陽毬やマリオ、真砂子に命(復活)をプレゼントしています。

…しかし、眞悧のウサギにはある特徴があります。それは色が黒いこと。それって何を表してるんでしょう。
基本イースターのウサギは野ウサギで、ピーターラビットのようなイラストがつけられていることが多く、黒いウサギはあまり見ません。
キリスト教での黒色というのは"死"を意味する色で、眞悧は最終的に復活と一緒に死をプレゼントする、作中での言葉通り"呪い"(無秩序)のメタファーなのだと感じられます。

 

>>三位一体
あと私が気になるのは『三位一体』という言葉です。
これは人間は神を認知できないけど、3つのものを通じて神を感じられますよ。存在しますよ。というような説(だと思っています…)
大学でキリスト教は学んだのですが、この三位一体論は理解するのに時間を要する気がします。難しいです。
1つは神父を通じて、1つはキリスト(神子)を通じて、1つは聖霊を通じて。人は神を感じられるそうです。

 

なぜこの言葉が気になるのかというと、この作品3人セットが多いのです。
晶馬・冠葉・陽毬、陽毬・ヒバリ・ヒカリ、桃果・多蕗・ゆり、…
というように、3人セットは多いですね。真砂子だったりもいれるとここに記した数倍は3人セットができますね。
この作品の3人でセットになっているときは、3人セットでいなくてはならないというような焦燥感すら感じることがありますね。

多蕗・ゆり、真砂子・マリオは、あともう一人(桃果・冠葉)を失い激しい焦燥感を覚えているようにかんじます。
ゆりや真砂子は欠けてしまったもう一人を強く求めるシーンが多く、三位一体をいう言葉を意識してしまいます。

 

●●●

銀河鉄道の夜から派生してキリスト教になぞらえて作品を見てみると、新たな発見があり、より作品に深みをもって観れます。ぜひ学問としてでも触れてみてください。とても面白いです。

また少しずつ加筆修正していきます。