【考察】さらざんまいについて【感想】

ネタバレ※含みます。

作品をご覧になってから読まれることをおすすめします。

 

 

 

 

 

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さらざんまいについて

▼第一、なぜ河童なのか

よく、妖怪って逸話がありますよね。
例えば天狗は小さい男の子が好きなおじさん説とか、山姥は山に捨てられた老婆説だとか、色々ありますよね。
その中で、河童の【正体】との言える逸話は何なのか調べたところ
【間引かれた子どもの水死体説】があり、なんだか納得!という感じでした。

前提に妖怪というのは、昔の大人が子どもにこんなのがいたら近付いてはいけませんよ!と教えたもの説が多い気がするので、川に死体を捨てていたのであれば子どもに見せたくないと思うのも納得がいきますね。

さて、河童=間引かれた子ども説を推したところで本題の、
なぜさらざんまいのメインは【河童】なのか。
河童に変身する3名の男の子(子どもたち)は間引かれた存在であると前提付けられると思います。
【死んでいる】という意味だけではなく、

【社会的な間引き】とも捉えられるのではないかと感じます。


中心人物三人はそれぞれ”普通でない”部分(人に言えないこと)があります。
カズキ >> 女装して自撮り
トオイ >> 犯罪に手を染めている(又は過去に人に言えない事がある)
エンタ >> 恋愛対象が同性の友人である
といった具合で人に言えないこと、社会的に間引かれる要因が存在する。といった感じです。

 


▼なぜカワウソなのか

まず伝承では、カワウソは化けて出るというものがあります。
人へ干渉したりいたずらしたりするらしいです。魂を抜いてしまうという話もありました。又、カワウソには河童と【同一説】もありました。
川から出てきていたずらしたり相撲を取らせるという同一の逸話が多くあるからでしょうか。

ここで仮定をたてるとするなら
間引かれた子ども=河童
間引かれた子どもだった大人(欲にまみれた人)=カワウソ
としたいと思います。

作中でカワウソであるとされるレオとマブは、過去河童であったことも明示されていました。けど後半でレオとマブは河童に戻りました。
それってなんで?とおもって仮説にこじつけてみると、歳を取ったら大人というわけではなく、欲望にまみれる=大人という前提があるのでは?と感じました。

要するに、子どものころに普通でないことで社会から間引かれ、そこからひねくれてしまった、その欲を圧し潰すことなくどこかで発散する者の末路。(様々なカパゾンビもその典型と言えます)のように捉えられます。

作中に出てくるカワウソ(CV:黒田 崇矢)は欲望(呪い)のメタファーだろうと思われます。
欲望にのまれた河童は人を化かすカワウソになる、のではないか。…ちょっとこれは自信がないです。

 

▼さらざんまいの世界について

まず、作品の始まりが水中の描写から始まります。

この時点で、【溺れる】【沈む】ことを連想してみてもいいのかなと思います。

 

初めてさらざんまいを見たときに、「まるで夢みたいな進み方をするな。」という印象を私はもちました。具体的な例としては、カズキとトオイの出会いのシーン。

ぽんぽんと場面が変わり、いつのまにやら教室にいた。など、『気が付けば』シーンが変わる描写が多いと感じました。まとめると、現実味が少ない、と言えばいいのでしょうか。

 

「ア」標識や、話の通じない警察官、カパゾンビに河童にカワウソ。まあアニメなのであれなのですが、非現実が並びに並びます。

私が一番気になった部分は、最終話にトオイが川に飛び込んだ後の世界。3人で川から顔を出した時、「ア」の標識はすべてなくなっていました。

そこで一つの仮説として、あの世とこの世のように2種の世界がこのアニメ内では混同しており、登場人物たちはもともと【普通】の世界から、現実味の低い【異様】な世界へやってきた、と考えてもいいのかもしれないと思います。

※現実とストーリー世界を剥離させるのは、幾原作品の『ノケモノと花嫁』でも使われていました。

 

さらざんまい考察界隈では、最終話の意味深な入水などから死亡説も浮上していましたし、私もその考えも面白いなと思っていました。反対に、「欲望=命」を捨てるなというテーマに反するので生存している説も面白いと思います。

 

私が一番言いたいのは、肉体的な絶命=死ではないかも…という可能性です。

イクニ作品の中では、【死】という概念が広いことが多いと私は感じています。

社会的な死、恋愛対人的な死、肉体的な死…など、色々なものに掛かってくるので難解で考察班が動き出す作品ができるのかなと思います。

 

〇あの世について

カパゾンビなどが存在し、さらざんまいする世界線をここでは指します。

 

〇この世について

カパゾンビや非日常的なことがない私たちの今暮らす世界線をここでは指します。

 
▼ここまできて、まず根本のテーマについて

キャッチコピーである「つながっても、見失っても。手放すな、欲望は君の命だ。」

そして、さらざんまいは俗にいう【薔薇】作品を意識しており、男性同士の恋愛を主軸として動いているように思えますね。

【薔薇】としてわかりやすい描写は、エンタがカズキとキスがしたい(性欲)という思いがあるシーンや、レオとマブのお互いを汚したい(性欲)というシーン。
それは現代では一種のタブーであるように思われる行動で、この確立した社会からは逸脱した行為であることをキャラクターみんな理解をしているが【愛を止められない】のです。
それゆえの【河童=社会から淘汰されるかもしれない透明な存在】なんじゃないかと思います。
又、カズキはトオイと一緒にいたいと願っている。これはがっつりとした恋愛感情や性欲とは異なるかもしれないし、友情とも捉えられます。
…カズキは節々において性別について無頓着であるように感じられる描写が多いな、と感じますね。これは無欲(欲望が少ない?)現代人のメタなのかな…?
それは、女装をして自撮りを撮影するにはじまり、えんたが突き放されることを前提に気持ちを伝えたときもまったくこれといった拒絶も受入もなかった、無欲に近い存在なのかと思いました。

 

〇欲望は君の命だ。とは

上記の同性愛的な感情、現実世界では認知されつつある問題ではありますが、なんとなく【タブー】感があるものかと思います。いまだに差別的な意見や視線を持つ人もいますし、本人たちもわざわざ周りにひけらかすものでもない、といった感じでしょうか。

今までの社会では、こういった欲望(好きな人が同性だとか)は、自分の中に飲み込み、ないものとしてきた人もいたのだと思います。

この縮図はレオとマブなのかな、と思うのですが、【欲望】を諦めないレオと、諦めるマブ。諦めれば【普通】(滞りなく一緒に居られる)を手に入れることができるけど、【愛】(前途多難だが欲望は満たされる)は手に入らない。みたいな感じかなと思います。

その結果、【欲望】を諦めたマブは肌色が悪く【死人】を象徴し、欲望を諦めたモノとして描かれていたのだと思います。確実にレオと一緒にいるためには【愛】という【欲望】を諦めなければならなかったのでしょう。

 

結論《欲望》

ということにつながるのかな、と思いました。


▼「ア」とは
作中たびたび出てくる「ア」という記号。
これは「愛」を記号化したものだと思います。
作中で、サラちゃんの背景にある看板に「世界の中心で「ア」を叫ぶ~」のような文字があります。
まず第一に思いつくのが社会現象になった小説『世界の中心で愛を叫ぶ』であったり、現代日本人であればそこに「愛」をはめなくては気が済まないような文面が連なっています。
ここでは「ア」については語るまでもなく「愛」を表しているものと考えられます。

▼尻子玉とは
作中、主人公たちが河童となりカパゾンビのお尻から抜く尻子玉。話の流れ的に人間の欲望が塊になったもののメタだと考えます。
この作品のテーマとして考えられるのは【薔薇】的にも考えられます。
あまり男性同士の恋愛には明るくはないのですが、男性のお尻は時折性器としても認識されることがあります。
そこに男の子たちが入って尻子玉(欲望の塊)をひっこ抜く、というのは多少なりとも下ネタ(こういうと俗物っぽいですが…)が含まれていて、あの河童戦闘シーンは何かしらの【行為】のメタファーなのでは?と感じます。(カパゾンビも最後気持ちよさそうですし…)

又、公式サイトにあるように『手放すな、欲望は君の命だ。』とのことなので

前提として【命=欲望】があると考えていいと思います。


欲望(=尻子玉)をとられたカパゾンビは消滅。輪廻を強制解脱させられているとかんじました。そして、主人公3人はけっぴーに尻子玉を抜かれています。
これが何するかといわれると要するに『命』を握られている状況ということです。
この主役の尻子玉もなにかしらのメタファーのように感じられます。